正義についての考察
2005.05.25.Wed 亮
注
この文章は、Saltatio Vente Et Flolisの管理者魔術師による「正義とは何か」に対する感想として、BBSに掲示されたものです。
故に、彼の書いた「正義とは何か」を読んでいなければ、出典の掴めない文章が多々あると思います。
また、ニーチェによる現代思想や、とつげき東北氏による文章などを読んでいないと、理解できない部分が多数あります。
これらの点を踏まえてお読みください。
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「正義とは人間が勝手に作った、自分達のルールであり、ほかの物には対応されない」
正義とは具体的な何かではなく、概念であり、過程である。
俺が非常に好んで通っているとつげき東北氏のページや、ニーチェの道徳に対しての考察を読めば一発だろう。
人は、自分の評判を上げるために、何らかの方法を使う。
頻繁に見られるのは、別に何も危惧される必要のない事柄をわざわざ取り上げて“問題”にし騒ぎ立て、それに対する解決策を提示するという形式だ。
即ち自作自演。昔は存在すら認知されなかった「心の闇」なんてのもこの形式に属するわけだ。
これを意識的にやるのが政治家で、無意識的にやるのが大衆である。
そして、この「解決策を提示」する過程が一般に正義とか正しいとか言われることなのだ。
この「正しい」と言われるモノは、どこから来たのか。毎度お馴染みであるが、やはり「道徳」である。
道徳を作ってしまった不毛な道徳家の勝手な思い込みによる意見の押し付けが、現在の「正しい」と認識されるようになってしまっているのだ。
道徳は常に、何でもない唯の凡人や大衆が上位者を感情的な表現のみで貶めて、自分達が何とか優位に立てるよう意図して作られている。
だから、「〜してはいけない」ということが多いわけだ。凡人には「〜することさえもできない」わけなのだから。
これら2つの形式が掴めれば、命題である「正義とは何か」ということに一発でケリがつくだろう。
正義とは、凡人や大衆が、道徳によって、自分達が何も出来ないという事実を隠蔽しつつ、自分達の評判を上げるための過程であり、またその結果出来てしまった無形の自作自演の集大成である。
無形であるから、矛盾なんて多々発生する。そもそも1つ1つが個々人に良いように作られ、個々人の評判を上げるために、時によって様々に変わっているのだから。
つまり、正義とは、凡人や大衆が「道徳」という非常に手軽に使うことの出来る物を以ってして生まれてきた、評判生成装置と言えるだろう。
2005.07.02.Sat 亮