「普段している勉強の意義とは」

まずこの「普段行われる勉強」を、一般的に勉強と呼ばれる(⇔仕事を含まない)ものを、行われる内容によって4つに分けよう。
@「受験勉強」とA「小学校〜高等学校での勉強」とB「大学や専門学校での勉強」とC「生涯的な勉強」である。
これらが内包する意義という観点から考察してみよう。

まず第一に@「受験勉強」の意義であるが、これは読んで字の如く、受験で合格するための勉強である。
受験は各々の受験者に共通の課題―学習し続けること―を与えることで、一部の天才を除き各者の能力を「努力」という観点で数値化し個々人を公平に評価できる。
何もしなければ合格できず、努力した量の多い順に合格できるのだ。

第二にA「小学校〜高等学校での勉強」であるが、これは読者にも経験が多いはず(小中学校においては義務教育であるからよっぽどのことが無い限り全員経験があるだろう)であるから、少し分量を多く取ろう。
小学校の勉強は、日常会話・読み書きや四則演算といった「無ければ生活できない知識」を受動的に学ぶ場である。
どんなに勉強とかけ離れた生活をしたとしても、読み書きや日常会話が出来なければ他人と交わる術を持てず(持てたとしても非常に困難で非効率的)、究極的には自分1人で生活しなければならない。
四則演算が出来なければ、貨幣経済の社会では全く生きていけない。
であるから、義務教育という形で政府はこれらの教育を保障している。
即ち日本人として生きる上での、最低限の知識を得ることが小学校の勉強の意義である。

それが中学・高等学校となると話は少し変わる。
これらにおいても教師から内容を教えてもらう、受動的学習であることに変わりは無いのだが、これらは日本人として生きる上で、あれば良いが無くてもさほど困らないものだ。
小学校から中学校に上がった子供の多くが抱く疑問が「どうしてこんな意味の解らない計算をするの?」というものだろう。
日常生活において、文字による計算などとは縁がないというものだろう。それは当然である。
中学・高等学校における勉強は、即ち、大学や専門学校といった場で、専門分野を扱うための謂わば準備である。
この程度のことを理解出来ていない限り、専門分野は扱えない、ということだ。
「それならば自分の専門分野に応じてその都度必要な知識を仕入れていけばよい」という考えもあるのかもしれないが、これはあまりにも非効率である。
同じ内容を少数に分けて教えることは、まとめて多数を一度に教えておくことよりも、時間的な効率や教育者の対人効率から見ても非効率である。
勿論全ての人間が専門分野を持つとは限らないがそれらは少数であるから、やはりまとめて教えておく方が効率が良いことに変わりは無い。
さらに言うと、中学・高等学校における理数系科目の勉強というのは、殆ど一般的な事象を扱う(文字を扱うのもそのため)。
一般的な事象を扱うには、具体的ないくつかの事象から考えて凡そ共通していると思われるものを見つけ、他の多くの具体的な事象も同様だ、という論理を働かせ推測しなければならない(これは帰納[induction]と呼ばれる)。
この論理とは、小学校で行っていたような具体的な事象を扱い、唯受動的に学ぶだけでは働かすことが出来ないものである。
常に「何故?」という言葉を得なければ決して「だから」という言葉を得られない。
この「何故?」「だから」という過程を、「一般的な事象を扱う」というステップで多く踏ませることで、論理を働かせることを可能にする、即ち論理的思考力を得ることが、中学・高等学校における勉強の意義なのだ。
これは理数系科目に限らない。現代文・古文・漢文や外国語でさえ、問題を解くときにはフィーリングや勘ではなく、必ず問題毎の「論理」を用いて解くよう教えられるはずである。
(但し、論理を用いて0から考えて問題を解くよりも知識として10持っておいて問題を解く方が時間的に効率が良い、という点が曲解されて、「学校の勉強は暗記だ」と思われ嫌悪される傾向があることは否めないが)

そして第三にB「大学や専門学校での勉強」の意義である。
殆どの勉強はここに収束する。
専門知識を総動員し、現存する技術や知識をより深く新たなものへと進歩させてゆく。
これによって現代の我々の生活は培われているのだ。
これらの場における勉強は、高等学校までの勉強とは異なり、自ら進んで、能動的に学習することを求められる。
これらの場では、あくまでも集団で研究する課題に結果を与えるのが目的であり、個人の能力を高めることが目的ではないからだ。
であるから必要な知識は自ら知るなどの「進んで学習する」姿勢が要求されるし、それが嫌ならば入ってくる必要はない、非義務教育とされている。
@に示した「受験勉強」の意義とは、この「進んで学習する」姿勢を持っているかどうかを、「努力することができるか?」という点で自身を評価されるために行うものである。
そしてこの大学や専門学校での研究や勉強は、企業や更に上級の研究のために使える結果を出すことを目的とし、延いては、個人の勉強の成果を社会に還元することを目的としているのだ。

さて、第四のC「生涯的な勉強」であるが、これは大学や専門学校における勉強とは逆に、結果を社会に還元するのが目的ではなく個人の能力を開花することが目的である。
スポーツや音楽活動もこの勉強に入るだろうが、これらは自分以外の他人を楽しませる、感動させることが多く、その需要によって成り立っている分野とも言える。
これは、個人の能力を開花させていく過程で、他人に「娯楽」を与えているということなのだ。
よってこの種の勉強は「自主的に参加するもの」となっている。

以上より、行う勉強の殆どは、個人ではなく社会に恩恵を齎すものであり、ヒトという動物種がより進化するために必要なプロセスでもある。
言うなれば勉強する人間とは、世界に対する公務員であり、やるべき勉強は仕事である。
つまり、自身が食べる飲むという行為を行うために仕事をするのと同様、発展した社会で生きていく上で「やらなければいけないこと」ということだ。
故に意義など存在せず、ただ生きるために必要な行為である。
ただ、この「やらなければいけない勉強」に興味を持ち、楽しみを見出すことが出来れば、勉強は仕事から娯楽へと変わる。
勉強が娯楽となったとき、高等生物として進化し、勉強することの意義を「楽しいから」と言えるようになるだろう。

銀翼公
仮に、勉強することに意義があるとしよう。同様に、議題の提案者が「普段の勉強」と定義したことから勉強を小中、並びに高等学校、ないし大学、専門学校における「学問や技術を学ぶ」という行為と定義する。

上述の前提に基づき勉強の意義を見出すとすれば、以下の三点が挙げられる。

第一に、社会活動での基盤となる専門知識・技術の習得である。専門学校への進学や大学での学部設定が総じて将来設計の一環であり、自己の目指す職業や社会生活に必要な要素、つまり知識や技術を習得するために「勉強」するというのは至極当然のことであろう。

第二に、自主的な学習による目標設定、及び達成に足る能力、自律性の獲得が考えられる。義務教育ではいざ知らず、それ以上の学習の過程には考査や受験など受動的ではあれ能動学習の枠が与えられる。言い方を変えれば、学校という存在自体がその枠でもある。つまり、その枠を利用し自ら結果を導く過程で目標設定・達成という能力を確立し、また、能動的、自主的に学習するうえで自らを律する力を養うことが「普段の勉強」の意義であると筆者は考える。

第三に、多角的、発展的な学習による社交性の発達が挙げられる。義務教育における学習が一般常識である以前に人として生活する上での基礎、あるいは応用力の精練であることはご推察の通りだが、例えば高等学校では、ある程度の学科の選択は可能とは言えその学習内容は専ら社会生活とは無縁である(無論、中には前述したような将来性のある――自己の目標達成のために必要な――科目もあることと思う)が、それにも拘らず常用使うことのない数式や歴史の知識を学ぶのは、その学習内容ではなく学習という行為自体が、一定水準の学習領域の履修による知識の処理技能・理解・認識力の発達、あるいは目標達成への意欲・関心といった性質を帯びているからと筆者は考える。これが筆者の意図する「社交性」、つまり、社会を形づくろうとする人間の特性に繋がる。
これは持論だが、受動的とはいえある一定の課題を達成できた人間と達成できなかった人間との間に力の差が生まれるのは必然である。とりわけ「社会」という利害追及と競争を糧とする包括的複合体の中では、その差は致命的である。だが――凡庸甚だしいが――同じ課題を達成できなかった人間の中でも、目標を達成しようと尽力する者としない者とでは根本的に人間の器が違う、と言っても前者にあるのではなく偏に後者にないだけである。さて、些か話がそれたが、凡人Aの涙ぐましい努力が報われるか否かは別にして、「社会」を形成しているのは前者なのである。後者には社交性、社会を形づくろうとする意志、もとい、資格がないからというのがその所以である。故に、後者は「社会」において排除される。従って、例に挙げた高等学校での学習が課題を成し遂げ得る能力、及びそうしようとする意志の相互を習得することで「社交性」という性質の向上に寄与するというのが筆者の考えである。

以上より、勉強の意義を「知識・技術、自律性、社交性」の獲得と位置付けた。内容については頭の良い人からはいろいろと指摘を受けると思うが、証明する手立てがないのでこの際不問とする。然し、本論は「意義があるとすれば」という前提に基づいている。つまり、希望的観測のうえで意義らしきものを三点列挙したが、「意義」=「知識・技術、自律性、社交性の獲得」というに足る立証は出来ていない。この時点で、この論理は崩れ去る。では、前提を変え本題に入ろう。

上述の「勉強」という定義をそのままに、勉強の意義の有無を不問として考察しよう。

先ず、考えなければならないのは勉強の必要性である。無論、この場合文字の読み書きや算数程度の知識は社会生活を営むうえで必要最低限の常識と考えて然るべきだ。そういった意味で、先の前提に基づく一点目「知識・技術」の習得はある程度正しい。もし、将来医療や芸術、食品衛生などの場での就職を考えるならば、それらに見合う「知識・技術」を得るために専門の学部や学校に通うのは道理である。だが、お笑い芸人がやたら化学式を覚える必要もないし、バスやタクシーの運転手が古文・漢文を理解する必要は皆無だし、国会議員に異様な関数は不必要である。つまり、一定の職業ないし業務に携わるという観点からは不必要な勉強が多々あるという事実は否めない。この段階で、勉強に意義があると言うには弱い。同様に、先の前提に基づく二点目、及び三点目では「自律性」「社交性」について考察したが、それらを得る目的で勉強しているという自覚がない以上それを意義ということは出来ない。
だが、必要性に准ずることない「付加価値」という観点で勉強を捕らえることが出来れば、その勉強も無駄ではないと言えるのではないか、と筆者は考える。仮に勉強によって「自律性」「社交性」が身に付くのであれば、勉強から「意義」ではなく「価値」を見出すことが出来るかもしれないから。

結論である。勉強することに通説的な意義などない。これは揺るぎない事実としてここに立証された。と、同時に勉強するという行為は必ずしも無駄ではない。「価値」としての解釈のうえで、勉強にさまざまな「付加価値」を見出すことが出来るのもまた事実である。もし、勉強には意義があってその意義のため俺はひとむきに勉学に励むのだ馬鹿野郎、と主張する人間がいるのならそれで良い。筆者が、勉強に意義がないのではなくあくまで通説的な意義はないと述べたとおり、その人間が任意に勉強に意義を見出すことをとやかく言うつもりはない。だが、それは個人の問題であり、社会通念上に「意義」として捉えるには著しく矛盾する代物だ。同様に、「必要性」という解釈からも確固たる「意義」は存在し得ない。即ち、それらを踏まえ勉強という行為を是とするならば、この議題の答えは「勉強には『付加価値』が存在し得る」ということだと筆者は考える。

この論理の賛否は専ら「意義」と「付加価値」の違いに集約することと思う。筆者は「任意の意義」と「付加価値」を同義としている。その点からもある程度推測できるように、意義とは「解釈」、つまりものの本質・真髄への究極的な理解を以ってして「意義」とし、付加価値とは「理由」、つまり無駄でないということを感覚的に理解しているがそれ以上ではない、無駄ではない⇔何かしら「価値」があるという点で「付加価値」としている。敢えて極端に分類したが、それは以下の点を説明するためである。
 例えば、俺は学校に行くことで自主性・自律性を身に付け、日々の学習によって社会へ貢献する準備をしていると絶対の自信を持って断言できる人間がいるとすれば、彼は「普段の勉強」にある特定の任意の「意義」を見いだしていると言えよう。あるいは、社会は高等学校・大学、並びに専門学校の卒業資格を問題解決や処理能力、社会寄与・献身の姿勢、転じてその従事する職業への意欲・関心へと昇華させ評価するが、このような勉強への姿勢が社会で評価されるのは社会がそう望んでいるという「結果」であり、個人が「必要」と考えているところではない。つまり、勉強を「結果」を残すための手段と捉えていない限り、ある程度ほかの目的における「必要性」を感じている筈だ。だが、多くの人間は何らかの「必要性」を感じていながら勉強の「意義」への完全無欠な理解をしている訳ではなかろう。曰く、非義務教育とは自ら「必要性」を感じ個人の将来への糧となる勉強をする場である。無論、「必要性」を見出せない人間が来る場ではない。
 ここで重要なのは「付加価値」という考え方である。上述のように、多くの人間が勉強の確固たる「意義」を理解出来ずにいるものと筆者は考える。だが、勉強がまったく無駄かといえば、さしもあらず――何らかの「価値」があると感じているだろう。この曖昧な、且つ信憑性のない理由に基づいて勉強をするのなら、そこには「意義」ではなく「付加価値」を見出しているのである。何度も言うようだが、勉強に先にも述べたような任意の「意義」を感じている人間がいるのなら、筆者はそれを悪く言うつもりはない。だが、それはあくまで「任意の意義」であり、通説的には「付加価値」に過ぎないのである。