「レベルの差の明確化」

※ここでの「議論ごっこ」とは、2006年3月にRyou's DiaryのBlog上で行われたちょっとしたディスカッションのことです。


俺は自分と違うレベルの人間(単に頭の良さのレベルと言える)と付き合う場合、相手が自分よりも下のレベルと判断した場合にはまず付き合うことがない。
感情的にイヤだから、というのもそれも少しは勿論あるが、何より「話しづらい」からだ。

どれほど認めたくなくても、俺とそれ以外の人間には必ず差が生じるし、話をする上での差など、知識量というよりもひとえに頭の良さに起因していると言っても過言ではないほどだ(勿論知識量でも差は出るがそちらは調べれば済むことだから)。
表現は悪いのかもしれないが、つまり、俺より下の人間がいれば勿論俺より上の人間だっているということ。
上の人間はどうも「こちらの話を先読みしている」という感じを受けるほどに話がし易い(感情的に楽、ではなくこちらの意見が伝わりやすいということ)。
だから同意するかどうかは別としても、こちらの意見を容易く且つ的確に理解してくれる。
こちらに弁舌上の不備があったとしても、それを先にしかも的確に補完してくれる。
これが上の人間と話す事の楽さだ。
逆に下の人間はどうも「こちらの話を後追いしている」という感じを受けるほどに話がしにくい(上と同様にこちらの意見が伝わりにくいということ)。
そんな時俺は相手に理解させるまで何度も説明する必要があるのだが、相手はそれを拒もうとすることもある。
こちらには同意するかどうかも大きく関わるように感じる。同意しているときだけ話を聞き同意していないときには話を聞くことが稀だ。
これが下の人間と話す事の苦労である。
両者と話をする時に感じる「話しづらさ」とは、「自分の意見を理解してくれるまでにかかる時間」が長いか短いか、ということだ。

これは何も俺だけに限ったことではないと思う。
何しろ俺が自分より上の人間と話すとき、間違いなく「俺に意見を理解させる」ことに割く時間が「俺の意見を理解する」時間よりも長くなっているからだ。
実際の俺は全くと言っていいほど弁が立たないので、自分が感じている以上に相手にその補完を要求していることが多いと思う。
だから、普通の上下関係以上に相手に苦労させている部分が多いだろうと感じる。

そして、俺が自分より下と思える人間と話すのがイヤもしくは苦手と感じるのは、自分の弁が立たないから相手にその補完を要求しているのにも関わらず、相手がその補完を行える技量を持ち合わせていない、というのがとても大きい理由だ。
相手にこちらの意見を理解してもらうどころか、理解させることに努めなければならず、結果的に俺の弁が立たないから理解されず更には理解を拒まれる。
俺の弁舌の技量に起因している、と言えばそれまでなのだが、中々そのレベルを上げることが叶わないので、出来るだけ「理解させる努力」を必要とさせるような相手と話すことを避けてしまう。

閑話休題。

自分より上の人間、自分より下の人間は必ず存在してしまう。(相対的に)上の人間がそう意識せずとも勝手に存在する差だ。
個人の努力量とは関係なく、どうしても持って生まれた才能としての差があるのだ(飲み込みが早いとか物覚えがいいとか)。
だから(相対的に)下の人間が上の人間を理解するには、上の人間に繰り返し説明してもらい自らが理解しようと努めなければいけない。

今回の議論ごっこ第1回がそうであった。
俺は、参加者から「理解しにくい」「書きにくい」と言われ「もっと書き易い話題の提示」を求められた。
俺はこの話題に自分の論を示したし、他に自分の論を示した人間もいた。
ということは、何も俺だけが理解でき、俺だけが書くことができるような議題というわけではなかったと考えられる(他に論者が存在するから)。
ではあるが、意見があまり出ず「書きにくい」と感じられたということは、「論を示せた」人間と「論を示せなかった」人間との間に差が在ったのだ、ということ。
これはやはり否めない。
ただ、この差をいかにしてなくそうとするかが重要だ。
この差をなくすには、(相対的に)上の人間も下の人間も、双方が解決に努める必要がある。
上の人間は「より解り易い説明」を、下の人間は「より相手の意見を汲み取ること」を、である。
俺は今回の件について、後者がなされていなかったことが大きいと今でも思っている。
「理解できない」なら、何が理解できないのか、少しは理解できる点があったのか、自分が想像した意見を相手に伝えてその是非を問わなければいけない。
そうして意見を述べた人間が、質問点を中心に文章を簡潔化していく。
文章を書き慣れていない人間の文章が下手に思えるのは、ひとえに文章が簡潔化されておらず複雑なためであって、これを出来る限り修正していくのがこの議論ごっこの目的でもある。

勿論両者が同時に理解しあうことはまずできない。そこに才能の差があるなら尚更だ。
だから理解できるように努めなければならない。
これはこの議論ごっこにおいてのみだけでなく、現実における討論や話し合い、更には会議でも同様だ。
特にこの議論ごっこにおいては、参加者間の年齢差が小さいので才能や努力量の差は微々たるものだと考えていたし、現実における討論・話し合い・会議ではこんなものとは比べ物にならない大きな差が存在すると思っている。
だから、この程度の議論「ごっこ」において理解できない、理解しようと努められないことは、この先いかなる話し合いも出来ないことと同義なのだ。
(相対的に)上の人間も同様である。
(相対的に)下の人間に理解できるような話が出来なければ、話し合いは成り立たない。
自論の構成を解り易いものにすること、要約して簡潔にすること、問われた時、より解り易い説明をすること。
現実における討論・話し合い・会議でも同様なのは、上記の通りだ。

差が存在してしまうことは仕方のないことだ。
だからこそ、その差を利用すべきなのだ。
自分が上にいる・下にいると、差を意識し明確にすることで、自分のやるべきことも明確になる。
上にいるならばより解り易い説明を、下にいるならば理解できるよう努めることだ。
この差を隠蔽してしまうことは、「自分が上にいるかも下にいるかも解らずやるべきことが曖昧になる」ことに繋がる。
俺らは一部の理解できた人間として、常に相手との差を意識して話すことが必要だ。
相手との意見交換で最も重要なのは、相手の意見を理解し自分の意見を理解させることなのだから。