「理系迫害主義」

理系は文系よりもマイナスに捉えられることが多い。

現在の日本の理系迫害主義は語らずとも悟れる状況にあると思う。
実際進路に迷っている子供に、

「是非理工系に行きなさい!」

等と声を掛ける家族や親類は少数派だと思われる。
私の場合は物心ついた頃から、モノをバラして組み立てたりしてモノの構造を知ることや、その構造を利用して何か出来ないかと考えること、またそれらを含め順番に物事を考えるというプロセスが非常に好きだったため、進学先をいわゆる理系学部に自ら設定することとなったのは当然の帰結であった。
大学での専門基礎科目に不安を覚えることは多々あるが、“理系学部に進学しなかった自分”を想像することは難しい。
無意識の内に「理系で良かった」と思っている部分があるのかもしれない。

しかし、世間はそうは思わない。
理系と言うと概して男臭い・面倒臭い・貧乏臭いといったマイナスイメージで捉えられがちである。
実際その通りで、我が大学は薬学以外の理系単科大学としては異例の女子率であるが、全国を平均的に見てみれば男女比は極端である。
大阪府内のとある有名国立大学に通う友人の話では、学科の男女比は9:1程度とまで言われる始末だ。
また、理系学部はどの学部を例にとっても、ややこしい数式や化学式をこねくりまわす煩わしい勉強が多い。
数字や記号に拒否反応を出すような人にとっては、授業終了後の黒板を見るだけでストレス障害に陥ってしまうかもしれない。
そして最後の貧乏臭い。今回話題に取り上げたメインテーマでもある。
理系学部の中でも医学部は別枠として、殆どの学部に富裕だとか出世だとか社会的ステータスだとかのイメージはつかない。
更に平均1億とか2億と言われる生涯賃金(=一生の間に稼ぐお金)は、理系と文系では5000万円もの差額が出るという話もある(→ソース:「文系理系の生涯賃金格差は5000万円」 〜さらば工学部(6):NBonline(日経ビジネス オンライン))。
現状、多くの親は自分の子供に理系を目指してくれ、と言う事はないのではと感じる一番の理由である。
実のところ、私自身仮に自分の子供が進路に迷ったとすれば、子供自身が積極的に理系学部を求めない限り理系を勧めることはないだろう、とも感じている。

「就職活動は競争率の高い文系に比べれば楽だし、好きな事をやって食べていけるんだから文句を言うな」

といった意見はあるだろうし、実際理系に進んだ私もずっとそう考えてきた。
が、実際はそう甘い話など無いらしい。
若い間は文理等殆ど関係なく同じような賃金で働くのだから、専門知識を生かして働ける理系の方が有利に捉えることも出来る。
しかし、大学で学んだ知識や技術というのは普遍的なものばかりではない。
根底にある知識が普遍的なものであったとしても、それを応用する手段は刻一刻と変化する。
たった10年前までフリーズとブルースクリーンで悩まされ「メインメモリが256MBもあれば…」等と言っていたWindowsPCは、今やメモリ数GBは当たり前、フリーズやブルースクリーンなんて起こることはまずない。
たった10年で、机の上にあった馬鹿みたいにデカい箱型コンピュータや辞書のような分厚さのラップトップノートパソコンは姿を消し、透明部品を多用し洒落たデザインとなった薄型デスクトップや、薄い筐体に広いワイド液晶画面を備えたノートが出回るようになった。
10年前は到底考えられなかったGHzCPUやTB単位のHDDが安く簡単に手に入るし、コンピュータのせいで仕事が捗らないなんてこともなくなった。
10年前に現役だった技術者は、今や用無しである。
10年前に脚光を浴びていた技術は、今や見る影もない。

20歳以降の10年は大きい。
人間の学習能力・記憶力は20歳前後をピークにして、徐々に衰えていくと言われている。
20歳では簡単に習得出来た知識や技術は、10年後には用無しであり、新たな状況に対応するべく衰えた30歳の脳で20歳と同等もしくはそれ以上の知識や技術を習得せねばならない。
それは30歳になっても、40歳になっても、50歳になっても、60歳になっても同じであるが、応えなければならない肝心の脳は年齢と共にそのスペックを落としていき、20歳の頃の数倍の労苦を割いて状況に対応する必要がある。
それに対応出来なくなった時、理系は“賞味期限切れ”として切り捨てられる。

いわゆる技術者と呼ばれる人間が、企業の中で重要な位置を占める事は稀だそうだ。
彼らは新たな知識・技術の習得と現状の課題に取り組むことに精一杯で、人間を管理し動かす事を学ぶ余裕がない。
つまり、管理に適した年齢になった時、人間を管理する能力が極端に不足しているためにそれらの地位に就くことが難しいのである。
これを単に技術者の怠慢と言ってしまうのはあまりに酷ではないだろうか。
知識の習得というものは、20歳の時分ですら相当な労苦を求められる。
そうでなくとも学問には分野毎の明確な仕切りがないにも関わらず、その学問には終わりがない。
時間の経過と共に得るべき知識は増えていくばかりで、消化してもし足りないのだ。
年齢と共にそれは加速するのだから、睡眠を取らない程度の勉強量で賄うことがいずれ出来なくなるのは目に見えている。

企業における技術者に求められるのは、利益の創生である。
新しい技術、新しい機械、新しい物質。
これらを研究開発し、応用する商品を考え創り出し、特許を取って企業に利益を齎すこと。
その利益を以て、次の研究開発に取り組む。
しかし、どれほどの新技術・どれほどの新機械・どれほどの新物質を創り出したところで、それに見合った評価を企業から下されることはまずない。
青色LED開発関連で、中村修二氏が404特許の移譲または相当する対価を要求した一件に関しては異例ではあったが、世間の見方としては「正当な対価だ」とか「いや、少なすぎる」という意見よりも、「金にやかましい奴だ」という意見の方が強いのではないだろうか。
経験上、特に研究開発に携わっていない人間ほどそう思う傾向にあると感じる。
日本という社会では、まだまだ研究開発には相当な労苦が求められるという事実と、それらに対価で報いるべきだという考え方が知れ渡っていない、または知られていても理解しようとしない・認めようとしない風潮が強い。
そこに文系至上主義・理系迫害主義を感じるのは、単なる被害妄想の枠で囲むことは出来ないだろうと考える。
今回この話題を取り上げるきっかけとなったのは、Yahoo!JAPANトップからリンクされるニュース記事についたコメントである。

世界最大の加速装置、技術的な不具合で2カ月停止(ロイター) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080921-00000584-reu-int

大型ハドロン衝突型加速器が設置された地下トンネル内でヘリウムガスが漏れたという事故。
因みに(円形)加速器とは、磁場中に速度と電荷を持った粒子を通す事でこれらのベクトル積方向に力(≒加速度)が掛かり円運動を行う性質を利用し、これに電場を掛けて粒子の速度を光速近くまで加速するものである。
高校2,3年生の物理の内容なので、原理はとても単純だ。
この手の研究は単に原子物理学の発展という側面の他に放射線治療といった医療分野にも応用される(この実験がどうなのかは全く知らない)。
が、ついていたコメントはどれも興味がない感じで、ただ事故を責めるばかりであった(中には「危険なので宇宙でやればいい」なんて失笑するくだりもあったが)。
「急いでやる意義があるのか(疑わしい)」といったコメントは残念でならなかった。

確かにこのような高エネルギーを扱うような実験での事故は危険であるから、事故というものが起こる可能性は極力減らすべきではあるし、責められても仕方がない。
が、実験に即物的な「意義」やゼロリスクばかりを求めるのは、上記の理系迫害主義に通じるものがあるように感じてやまない。
金にならない個々の基盤研究や基礎実験など無視し、技術者など“打ち出の小槌”の如く利益を生み出すための道具に過ぎない、という考えがあるような気がしてならないのだ。
道具に感情は必要ない。人権も必要ない。ただ黙って利益だけを生み出してくれればそれで良い。
その考えが行き着くところは技術者の奴隷化であり、有能技術者の海外流出であり、技術不足による国力衰退である。

理系小説−日本から理系がいなくなったら

そんな折、このような小説を発見した。
フィクションらしく、やや過剰に書かれてはいるが、概ねこういう末路を辿ることは明らかではなかろうか。
文系の重要性については私自身もそれなりに理解はしている。
人間が人間としてあるための基盤を作り、これを動かしていくのが文系である。
動物で例えるならば、骨と血液のようなものだ。これがなければどうしようもない。
しかし、基盤だけで動いていくのは発展ではない。
基盤を土台に、人々がより豊かに暮らせるよう発展しなければ、欲深き人間は現状を維持することすらままならない。
理系は発展させる役目を負っている。
動物で言えば肉のようなものだ。これがなければ身体を支え維持することも、速く動くことも、上手に振る舞うこともできない。
血液すら通る場所に困ってしまう。

と、ここまではこの日本社会に於ける理系のマイナス面ばかりを一方的に取り上げて来た。
しかし、理由もなく理系ばかりが冷遇されることがあるだろうか?
理系と呼ばれる人間に共通するものがあり、それが原因として社会の中で生きていくことが不器用で現在の状況になっているのではないのか?
即ち、理系が迫害される現状を作り出したのは、他ならぬ理系なのではなかろうか?

理系の晩年 文理格差の拡大
http://day.rikoukei.com/bannen.html
http://day.rikoukei.com/bannen2.html

これも先ほどのサイトの一部であるが、理系人間の1人である自分に重ねてみて、

若い技術者は威勢がいい。細かい専門的な技術をどんどん吸収していく。
若い技術者は、たしかに優秀だ。
しかし、文系の社員を見下すなど、傲慢なところがあり、上司との揉め事も多い。
一方、文系の社員は、要領がよい。自分も、文系の社員の方が好感が持てる。
若い頃は、理系の自分は傲慢だった。難しい数式が分からない文系を見下したりした。
しかし、現在、上司の立場に立ってみると、文系の社員の方が優秀な側面があることに気づいた。
難しい数式を知っていることより、部下には大事なことがあるのだ。

この部分に大変な共感を持った。
理系人間の全部というわけではない。
寧ろ理系の中でもホンの一握り程度かもしれない。
しかし、確かに存在する。
何処かに「文系を見下す姿勢」というものが紛れもなく、ある。
また同じ理系人間同士でも、年齢の差を意識することが少ない。
何故ならば、理数で話をするならばどんな年齢であろうと勉強さえしていれば、相手と対等に話す事の出来る材料を持ち合わせられるからだ。
長年その分野に関わることによって得られる経験に慣れなければならない文系とは、根本的に違う。
従って、上司や年上の人間に歯向かうことを厭わない。
更に言えば、「不審なこと・不確かなことには、まず否定して疑うことから始める」ことを基本とするため、相手に賛同することよりも反対することの方が多い。
反対意見は、如何にそれが論理的であろうとも、それだけで相手との間に壁を立て距離を作り、人間関係を悪くしてしまいがちである。
相手との距離を縮めるためには、まず相手を肯定し、意見をよく聞いて尊重し頷いて相手を立てるのが手っ取り早い。
が、それを出来ない理系が結構いる。少なくとも私がそうだ。
頭ではそうした方が良いと解ってはいても、何処かにある「文系を見下す姿勢」との相乗効果でそうできない自分が実在する。

「不確かなことは否定して疑う」姿勢だけならそうもならないのかもしれない。
しかしそれに加えて、個人としてのプライド・過剰な自信が関わってくると良好な人間関係は作り辛くなるだろう。
これに関しては、以下のBlogから引用をさせて頂きたい。

理系の女の子の取扱説明書 - 毛の生えたようなもの
http://d.hatena.ne.jp/gomi-box/20071109/1194613291

"理系の女の子”というイメージをモデル化して議論が進められてはいるが、実際のところ性差など関係なく“理系”として共通する部分が多いのではないかと感じ、引用する。

初歩的なことをわざわざ他人に教えられるのが嫌だから。嫌というか単純になれていない。もっと端的に言えばプライドが高いのです。
四年制旧帝大国立大学にいくレベルの学力があれば小学校・中学校と進む中でクラス・学年の成績の1番・2番キープは当たり前のはず。ものごころもついて、自分の見た目にもこだわりはじめる、もっとも女の子らしく生きるべき小学校・中学校の時期、まわりの男の子よりも出来がよいと何が悪いか。
「男の子に頼れなくなる」のです。
(中略)
経年するごとにそれはだんだん「自分で全部やらなきゃ」に変わります。
しまいに大学生になるころには「自分で何でもやってきたから何でもできるはず」に立場が変わってきます。

男だって似たようなものではないだろうか。
自分で勉強すれば解るような事を、わざわざ人に教えてもらいたくない。
自分が不真面目で不勉強な所を、わざわざ人に見せたくない。
自分が何時でもトップクラスにいたい(いると思いたい)から、自分より高いレベルに縋りたくない。
だから自分でやるしかない。
解らない所があるのは己の不勉強さが招いた結果だ、もっと勉強するべきだ。
アイツと同じテストで点数差があるのは、自分がその部分の勉強を疎かにしてただけだ。
きちんとやっていれば十分に追いつき、そして勝っていたはずだ。
俺はそれだけの器なんだ。
…と。

この考え方はある種モチベーションとなるかもしれないが、多くは極端な自己責任論のスパイラルにハマり、それに耐えられなくなった時、虚勢という現実逃避を選びかねない。
プライドの高さは自滅の可能性を内包する。
更に、上手い教えを請うために「人を立てる」というスキルを身に付けることをしていなかったため、いざという時に訊けない。
コミュニケーション力の不足を露呈する。
コミュニティに入っていけない。
しかしここで高いプライドが耳元で囁くのだ。
「自分がコミュニティに入っていけないのは自分のせいじゃない。話題が合わないからだ。彼ら(彼女ら)とは根本的に話題が合わないのだ」、と。

先ほどのBlogから再度引用するが、

そこそこ勉強はできる、んです。プライドも高いんです。バカにされたくない。
何を考えるかというと、そのあたりの女の子とは別の基準で争えばよいのではないか、ということを考えつきます。他の女の子が化粧品がどうのとか、誰それがかっこいいとか、今はやりの男優などについて語っている時間を別のことにつかいます。
さらに勉強して自分を蔑ろにする集団から離れたいとおもったり、パソコンに没頭したり、何か工具でつくったり、数学に投じたり色々です。逆に自分の見た目にあまり気にしなくなったり、流行を追うことを軽視しがちになります。
自分をバカにした普通の女の子と同じことをしたくないのです。彼らと同一視されるのが嫌でたまりません。

これは性別は違えども私自身が通ってきた道であるため、非常に得心がいく。
文理問わずコミュニケーション不全な人間の多くは、このタイプではなかろうか。
下手に知識とプライドがあるから、自分を否定できない。代わりに他人や世間を否定する。
私の場合、通ってきた道というよりも今現在通っている道と言った方が正しいのかもしれないが。
よく言われる言葉を当て嵌めるとすれば、中二病。
これがいつまで経っても治らないと、理系としても社会人としてもドロップアウトしていく。

個人的には、文系の重要性を理解しつつもやはり文系優遇理系冷遇の日本を見ている限り、文系は嫌い・文系人間は基本的に好かない・「どうせあいつらは…」的な意見が払拭できない。
それは理系迫害主義に対する憤りよりも寧ろ、文系に対する僻み・妬み・嫉みの感情が強い。
世間に数多く居られる研究者・技術者諸氏に関しては解り兼ねるが、現状の私を自己分析すればそんなものだろうと思う。

私自身の何よりの問題は、単なる日本の職業格差の問題以上の議論にまで理系・文系といった区分けを用いていることなのだが、今の自分ではこれらを括ることは出来なかった。
本当にコミュニケーションの得意な人間は文理問わず、学歴や文理区別などで人を量ったりはしない。
人を立てることを良く知り、自分の意見を言うべきタイミングを見逃さない。
私のような未熟な理系人間に求められるのは、多数の人と交流することでしか得られない上記のようなスキルなのであろう。